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非言語性学習障害とハイパーレクシアのために・・

 ここは、非言語性学習障害(NLD)児・者であると同時に過読症(ハイパーレクシア)持ちのひとを対象としますが、近似するいわゆるアスペルガー症候群も、当てはまる限りにおいて利用してもらってかまいません。

 

 戦略と発想の転換について

 

 教育というのは投資なわけですから、投資効率を考えないといけません。本人が不向きなことを改善することに取り組むよりも、得意で向いていることを伸ばすことに投資した方が効果が大きいですし、そのことによっていつの間にか他の面が改善されていたりするものです。なお、過読症その他の得意なことがない人については触れませんので、このブログは無視してください。

 得意なことを伸ばすことに集中的に取り組む

1効果が大きい。

2他のことの改善にも効果がある。

3やる気が出るので、さらなる学習効率の改善になっていく。

 一石三鳥です。不器用性や対人スキルや計算障害を改善していくにしても、まず、得意なことを伸ばすことによってやる気が出るようにしてから取り組んだほうが効果的な筈です。

 ところが困ったことに、学校教育というものは不得意なことの改善を優先させようとします。これは最も効率の悪い方法で、大人数を対象とした指導をするというシステムを採用している以上仕方ないとは思いますが、それにしてもせっかく過読症という突出した才能(定義や解釈次第ではサバン症候群の一種とも解釈できそうです)を有しているのに、それ用に特化した勉強をせずに過ごすというのはあまりにももったいない話です。

 不謹慎な話になってしまうかもしれませんが、発達障害児者に対して、理学療法士とか臨床心理士とか、場合によっては投薬による対処が行われるらしいですが、これらを否定も批判もしませんし効果がないとまでは言いません。しかし、多大な時間と労力を強いられる割には、効果は少ないです。なお、ADHAなどの他の症候についてはどうなのか知りませんが、すくなくともNLD児者に対して効果のある薬その他の医学的な改善方法が実現することにはあまり期待しない方がいいでしょう。わかりやすく例を挙げますと、伴性遺伝によって発症する色弱がありますが、これを本人の欠陥のような書き方をするとお叱りを受けるかもしれませんが、これを投薬によって改善したり治したりすることが可能か? というのに似ています。あるいは頭をよくする薬など存在しないようなものでしょう。絶対に実現しないとまではいいませんが、百年河清を待つような話です。いずれにしても、三つ子の魂百までという諺があるように、良くも悪しくも生来の特性や体質を変えていくというのとは大変なことです。そのうえ、さんざん苦労して多大な時間と苦痛と労力という代償を支払ってようやく健常者なみになったとしても、ようやく同一のスタートラインに立てたということに過ぎません。誰でもできることにはたいした価値はありませんから、過読症あるいは読書中毒によって習得した膨大な知識や、記憶の現象性やそれに起因する現象的な理解力や現象的な思索力。言語運動能力や演奏力や立体的な描写力など、その人にしかできない能力を伸ばした方が市場価値も上がりますし効果的です。NLD者が健常者に追いつくのが至難の業であるのと同様に、健常者がハイパーレクシアなみの読みの能力と音素論的な解析力を習得するのも至難の業な筈でしょう。小学校時代には読書中毒にものをいわせた厖大な知識量によって好成績が得られていたものが、学業が高度化してくると徐々に落ちこぼれていって健常児に追い抜かれたように見えても、過読症児者の持つ潜在的な能力そのものの優位性は損なわれてはいない筈です。知能や学力が決まるのは環境や教育よりも遺伝を含む生来の潜在的な素質による影響の方が大きいからです。

 もう一つの事情は、当然のことながら大多数の健常児を対象に考案された教材や指導法に基づいての教育を受けてきたわけですから、極端に言えば、生来視覚障害がある子供が、本人も親も教師もそのことに気づかないまま普通級に通って落ちこぼれてしまったようなものです。