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非言語性学習障害とハイパーレクシアのために・・

非言語性学習障害とハイパーレクシアのために(For all of Nonverbal Learning Disabilities and Hyperlexia)

 専門家と称する先生たちの説明や本を読んでみても、ご都合主義的な対策ばかりで、さほど効果的とは感じられず、境界級なので公的な支援も得られないという人たちに読んでもらいたいです。

 

 見切り発車しますぞ!

 

 専門家からの有効で効果的な提案を期待するというのは、百年河清を待つようなもので、いわゆる自閉症スペクトラムと健常とが連続するという見解にようやく到達したというのを知ると、彼らは牛歩戦術を採用してるのではないかという気すらしてしまいます。

今すぐ始めよう!

 これをお読みになった当事者は、お子さんであろうと学生さんであろうと中年であろうと、学ぶのに遅しはなし。の諺通り、すぐに勉強と訓練を始めましょう。専門的な教材や学習法を用意するには時間がかかりますが、さいわい既成の本やネットなどで使用できる教材がいくらでも見つかります。

 

 ではさっそく、、紹介していきます。

 

 計算障害や暗算障害や、数学の落ちこぼれにどう対処するべきか?

 

 右半球脳は並列的な情報処理に多くかかわっており、左半球脳は直列的な情報処理に多くかかわっているらしいですが、暗算で繰り上がりの操作をする際、2桁目のことを考えていると1桁の数値を忘れてしまって答えが分からなくなってしまうという、これなど典型的な計算障害ですが、数を数値としてではなく、文字として読む訓練をすればよいのです。この、計算せずに計算する(?)という代替法が、はたしてどこまで効果を発揮するのかということについては未知ですが、読むことは苦にならないわけですから、それこそ四六時中数字や数式を読むことも可能でしょう。計算できなくても気にすることはありません。どんどん読み進んで行きましょう。計算が不得手だからこそこのような訓練をしているわけですから、できなくて当然です。決して計算しようとしたり考え込んだりしてはいけません。数字を目で追って追って追いまくるのです。これはちょうど、最初は意味の分からないアルファベットの羅列だったものが、何度も目で追っていくうちにいつの間にか英文が読めるようになってくるのと同じ事情です。脳に、計算の回路が編み込まれていくからだと考えられます。

 

 ここは、非言語性学習障害(NLD)児・者であると同時に過読症(ハイパーレクシア)持ちのひとを対象としますが、近似するいわゆるアスペルガー症候群も、当てはまる限りにおいて利用してもらってかまいません。

 

 戦略と発想の転換について

 

 教育というのは投資なわけですから、投資効率を考えないといけません。本人が不向きなことを改善することに取り組むよりも、得意で向いていることを伸ばすことに投資した方が効果が大きいですし、そのことによっていつの間にか他の面が改善されていたりするものです。なお、過読症その他の得意なことがない人については触れませんので、このブログは無視してください。

 得意なことを伸ばすことに集中的に取り組む

1効果が大きい。

2他のことの改善にも効果がある。

3やる気が出るので、さらなる学習効率の改善になっていく。

 一石三鳥です。不器用性や対人スキルや計算障害を改善していくにしても、まず、得意なことを伸ばすことによってやる気が出るようにしてから取り組んだほうが効果的な筈です。

 ところが困ったことに、学校教育というものは不得意なことの改善を優先させようとします。これは最も効率の悪い方法で、大人数を対象とした指導をするというシステムを採用している以上仕方ないとは思いますが、それにしてもせっかく過読症という突出した才能(定義や解釈次第ではサバン症候群の一種とも解釈できそうです)を有しているのに、それ用に特化した勉強をせずに過ごすというのはあまりにももったいない話です。

 不謹慎な話になってしまうかもしれませんが、発達障害児者に対して、理学療法士とか臨床心理士とか、場合によっては投薬による対処が行われるらしいですが、これらを否定も批判もしませんし効果がないとまでは言いません。しかし、多大な時間と労力を強いられる割には、効果は少ないです。なお、ADHAなどの他の症候についてはどうなのか知りませんが、すくなくともNLD児者に対して効果のある薬その他の医学的な改善方法が実現することにはあまり期待しない方がいいでしょう。わかりやすく例を挙げますと、伴性遺伝によって発症する色弱がありますが、これを本人の欠陥のような書き方をするとお叱りを受けるかもしれませんが、これを投薬によって改善したり治したりすることが可能か? というのに似ています。あるいは頭をよくする薬など存在しないようなものでしょう。絶対に実現しないとまではいいませんが、百年河清を待つような話です。いずれにしても、三つ子の魂百までという諺があるように、良くも悪しくも生来の特性や体質を変えていくというのとは大変なことです。そのうえ、さんざん苦労して多大な時間と苦痛と労力という代償を支払ってようやく健常者なみになったとしても、ようやく同一のスタートラインに立てたということに過ぎません。誰でもできることにはたいした価値はありませんから、過読症あるいは読書中毒によって習得した膨大な知識や、記憶の現象性やそれに起因する現象的な理解力や現象的な思索力。言語運動能力や演奏力や立体的な描写力など、その人にしかできない能力を伸ばした方が市場価値も上がりますし効果的です。NLD者が健常者に追いつくのが至難の業であるのと同様に、健常者がハイパーレクシアなみの読みの能力と音素論的な解析力を習得するのも至難の業な筈でしょう。小学校時代には読書中毒にものをいわせた厖大な知識量によって好成績が得られていたものが、学業が高度化してくると徐々に落ちこぼれていって健常児に追い抜かれたように見えても、過読症児者の持つ潜在的な能力そのものの優位性は損なわれてはいない筈です。知能や学力が決まるのは環境や教育よりも遺伝を含む生来の潜在的な素質による影響の方が大きいからです。

 もう一つの事情は、当然のことながら大多数の健常児を対象に考案された教材や指導法に基づいての教育を受けてきたわけですから、極端に言えば、生来視覚障害がある子供が、本人も親も教師もそのことに気づかないまま普通級に通って落ちこぼれてしまったようなものです。